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2019/04/16

防衛研修所戦史部 32A参謀、八原大佐に対するGHQ戦史課の質問並び回答(昭和24年)①

昭和24年に行われたGHQ戦史課からの大佐への聞き取りについて

下記URLで原文がみられますが
https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/pdf/b0304068/b0304068.pdf
https://www8.cao.go.jp/okinawa/okinawasen/pdf/b0304068/b0304068_01.pdf

とっても読みにくい・・・ので、以下に書き起しました
旧漢字が多く、また印刷が薄いところもあり、判読が難しい箇所もしばしばございます

そこはある程度推測も交えて書き起しておりますので
違っているところもあるかもしれませんがご容赦を・・・

当方が入れた注釈については赤字にしてあります




昭和二四、四、一五
32A参謀、八原大佐に対するGHQ戦史課の質問並び回答
防衛研修所戦史部

元32A参謀八原大佐に対するGHQ戦史課の質問並回答
一九四九、四、一五 藤原

1. Q 終戦後沖縄作戦に関して公式に如何なる報告を何処にしたか
A 一九四七、四初め留守業務勤務中軍隷下各兵団、部隊の作戦記録を纏め同部に提出した(筆者注:千葉の厚生省留守業務部のことと思われる)
  一九四七、四初めNYK G-2に召喚せられウィッケル氏の調査を受け二日間に亘り回答した

2. Q 最近古川成美氏著の名義で発行せられた“死生の門”は八原氏の執筆に成るものか此の資料は八原氏の供述として戦史の資料に公式に引用出来るか
A 本書は自分が書き綴って居る回想録を材料として古川氏が編輯(へんしゅう)したものである
本書の内容中史実に関する件は自分の立場に於て真実であることを保証し得る但し形容の脚色は古川氏の創作である史実に関する限り戦史の資料として(八原氏供述の)公的に引用せられて差支ない

Q その回想録を借用できるか 私限りで
A 全く私の秘蔵するものではあるが必要とあれば貸与する
 
3.Q 一九四四年夏に於ける沖縄に対する増強兵力の到着状況
  A 9D 司令部 新田原より飛行機輸送 10/7-12/7
       部隊主力(沖縄本島) 中旬/7
    28D     (宮古島)  下旬/7
    24D     (沖縄本島) 下旬/7-上旬/8
    62D     (沖縄本島) 中旬/8
    軍直部隊 上記兵団に併行し概ね九月末迄に到着

4. Q 一九四四年秋(9D抽出せらるる以前)の32A作戦計画の根本方針は水際撃滅主義 か 沿岸決戦主義か 持久方式か
又 北、中飛行場は確保する決意であったか
A 沿岸決戦主義であった 勿論 北、中飛行場は確保の決意と自信を持って居た

Q  北、中飛行場とはー敵に委ねる地域的限界及び攻勢移転の時間的計画如何
A 上陸地点から一~二粁(キロメートル)縦深程度に敵第一次上陸部隊主力を上陸せしめその蝟集(いしゅう:一時に1か所に、多くのものが寄り集まること)地域は洞窟陣地に展開せる全砲兵戦力の威力を統一発揮した後攻勢を断行する
米軍上陸開始(X)後二日目(X+1)の夕方から砲兵射撃を開始し後半夜歩兵の攻勢を断行して一気に敵を撃滅する

Q 飛行場は敵に委する結果となるか
A 北飛行場の大部を除き我が陣内に包容する

Q 本攻勢成功の確信の度は
A 第一次の上陸部隊は撃破し得る確信があった

Q 水際撃滅主義を採らなかった理由は
A 米軍上陸部隊の退却若しくは他正面への上陸を許さない様に敵を絶体絶命の立場に置いて決戦を強要する為である

5、Q 一〇號作戦準備(一九四四-三)捷號作戦準備(一九四四-七)天號作戦準備(一九四四-二)(筆者注:一九四五-二の間違いか)各期に於ける32A作戦任務の推移如何
A 一〇號は航空作戦準備特に基地の建設とその整備が任務の内容で一般的には沖縄諸島の防衛であった
捷號の為に改めて軍の任務に関し命令を受けなかった 然し捷號作戦の計画は示された 之を以て任務附与とも考えられる

Q 捷號計画に伴う軍の任務を如何に諒解せしや
A 決戦軍に変ったと云う認識を持った

Q 天號の任務は
A 捷一號が発令せられた時32Aとしては全海、陸、空軍を掌る捷三號決戦は最早生起することはない 従って32Aの任務、性格が持久的なものに変化する様に考えられたがそれが曖昧であった 然し之を大本営に伺うことはしなかった 大本営からも捷一號発動後軍の任務に関して命令を貰ったことはない

Q 捷號計画の中に捷一號発動の場合他方面の軍の任務を示されて居る
のではないか
A 示されていなかったと思う

Q 大本営は二月三日大陸命一二四二號を以て10HA司令官に新任務を示されているが10HA司令官は之に基づいて32Aに命令を与えたのではないか
A 命令を受けなかったと思う
記憶にない
但し一月下旬か二月上旬頃10HA参謀長諌山春樹中将が大本営に出頭し其の帰途次のことを伝えた
(1) 次は本土決戦である
(2) 沖縄や台湾は前進部隊である
(3) 若し北、中飛行場正面に敵が上陸して来た場合は大本営は断固たる攻勢を要望して居る

6. Q 9D抽出に対し32Aの意見具申の内容は
  A (1)沖縄本島の防衛に責任を持てない
    (2)9D抽出した後、他方面から別の兵団を沖縄本島に増加せらるる様ならば9Dを沖縄に残して他方面の師団を台湾に抽出されたし
(3)32Aから一ケ師団を抽出せらるるならば宮古島の28Dを抽出して貰いたい
(4)沖縄本島から師団を抽出せらるる位なら寧ろ32Aの全力を比島の決戦場に転用されたい

7 Q 9Dが抽出せられ84Dの増派が中止になった時、32Aは宮古島の兵力を沖縄に転用する意思はなかった
A 無かった

Q 大本営に対する意見具申の一項目に28Dの抽出を揚げられているではないか
A 軍司令官が位置する本島の防衛強化の為に離島から兵力を抜くことは統帥上難点が7あると思う
又船舶の整備その他大本営を煩わすことが多いから困難と思った

Q 9Dの抽出後、84Dの増加或いは兵器弾薬の増送または28Dを転用するための船の準備等の中間案を選じ32Aが任務完遂のため10HA中大本営に更に熱意を披歴してその意志を上司に伝達させる遺憾はなかったか
A 或いは左様な点もあったかもしれない
9Dを抽出してから気合が抜けてしまった

Q 9Dの抽出が大本営に対する32Aの信頼、感情を根本的に壊してしまったため爾後の意志の疎通が円滑にいかなかったのではないか
A そういう点も或る程度有ったかも知れぬ

Q 9D抽出の感作如何
A 戦力の減少のため作戦計画の変更、配備の変更、全将兵に與うる心理的感作等、深刻なる感作を及ぼした

8.Q 一九四四年末から一九四五年初頭に亘る32Aの“沖縄に対する米軍の企図”を如何に判断せしや
 A 捷一號の失敗と共に米軍の次期進攻方向は南西諸島、特に沖縄諸島の算が最も多いと判断した 沖縄本島が其の中でも一番公算が多いが宮古島に来攻することもあり得ると考えた
一九四五年二月頃になると沖縄本島に来攻するとの判断が圧倒的になった
当時10HAや大本営から来る参謀も同様の見解を述べていた
その時期は三月-四月と考えた
軍は如上の判断に基づいて全軍将兵に“米軍は三月か四月は此の沖縄に必ず来攻すべし”と彼等の覚悟を促し一兵に至る迄徹底させた

9 Q 捷三號準備に於て採用したる“北、中飛行場を確保しつつ攻勢をとって米上陸軍を沿岸に撃滅する”主義を持久戦略に変更した理由如何
 A 9Dの抽出に伴い上の様な戦法が成立しなくなったのが主なる理由で、其の外、捷一號の発動に伴い32Aの捷三號に関する任務は本質的に変化すべきだと考察したことも一因である
前述の如く一月二十日の作戦計画ならびに天號航空作戦計画に伴う32Aの新任務を受領して居ない
唯一月下旬か二月上旬の頃、諌山春樹中将(10HA参謀長)から前述の様に北、中飛行場確保に関する大本営の要望は伝えられたが、長参謀長ならび八原作戦主任参謀は此の要望に応じ得ない見解を明確に披歴した
次いで10HA高級参謀村澤大佐来訪の節、切に中央の要望に応える様に懇請された その結果、台湾軍(10HA)から教導歩兵部隊を増強せらるることを前提とし、それが到着すれば該部隊と第62師団第11大隊を以て飛行場を死守せしめる 若し該部隊が到着しなければ第62師団第11大隊は単なる警戒部隊として運用するという話合いをした
何れの場合でも軍主力を以て北、中飛行場確保のため攻勢を採る意志はなかった

Q “死生の門”に1945年一月迄44Bを北、中飛行場地点に配備したのは大本営の執拗なる攻勢要求に対して32Aが同旅団を支隊として北、中飛行場正面に軍主力の攻勢を採る意志を表明せんとする“対大本営欺瞞”の“ゼスチュアー”であった様に書かれて居るが真実か
A 若干そうした考えもあった(「死生の門」は誇張してある)
大体左様である
計画にも攻勢企図をうたって居るが其の意志は全くなかった

Q 持久戦略に徹底することは軍首脳部門に完全に意見が一致して居たか
A 一致して居たと思う
 例えば一月下旬10HA参謀長が東京よりの帰途、大本営の攻勢要望を伝えた時にも長参謀長は断固として不同意を唱えた
 また一月頃北、中飛行場に配置しある44Bを事前に主陣地に転進させて主陣地に於ける戦闘準備の万全を期すべきことを主張したのも長参謀長であった
若い参謀は此の問題に就いて深く思索し尽くして居なかったかも知れないが軍司令官、参謀長、作戦主任の意見は一致して居た

Q 計画の中に一応は攻勢の用意を掲げて置いたのは単なる中央を欺く“ゼスチュアー”として片付けるのは無理ではないか
殊に軍司令官の人柄に鑑み、中央を欺く作戦計画を決裁されることがないと思われるが
A 此の計画は十一月下旬計画されたものでその時は状況有利な場合は攻勢に出る考えもあった 特に軍司令官はその考えで決裁されたと思う
一九四五年初め軍首脳が配備を詳細に偵察検討するに及んで、攻勢の無理なことを自覚し、44Bを主陣地に退けることになった

Q 一九四五年四月四日米軍上陸早々、軍首脳部間に早くも攻勢論が台頭し之が採用されたのは前述の意見一致に鑑み不可能ではないか
A それは大本営からの再三に亘る激しい要望電報により軍司令官・参謀長が統帥上の道に添わねばならぬとの責任観念から心境に動揺を来したからと思う

Q 之に関する八原参謀の当時の考えは
A 大本営の要望電報は命令とは考えなかった 一種の要望を披歴したもので絶対的なものとは思わなかった

Q 大本営10HAが厳粛に命令の形式を踏んでいたら躊躇することなく実行したであろうと考えられるか
A 事前に大本営10HAが攻勢の要求を厳命して居たなれば、軍は当然出来るだけの準備を整えて攻勢の準備をしたであろう

今回はここまで
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2019/03/21

仁位 顕 『珊瑚礁を朱にそめて』 (1973年) ③

以前の記事でも紹介した
仁位 顕氏の 『珊瑚礁を朱にそめて』より

陸軍砲兵学校教官は伊達じゃない、その技量の真骨頂について語られた箇所を
(八原大佐は登場しませんが)

p148-149
普通の戦況ならば、たまに来襲する敵機に対し遠くで発見して「敵機だっ」と警報を発して射撃を止めさせさえすればそれでよい訳だ。
これなら カワサキ純正 フォーク シフト 1ST&2ND 13140-0649 HD店、少々ボンヤリした兵でも、一応対空監視はつとまるし、現に演習ではその通りの部署でお茶をにごしている。
併し、対米戦の沖縄ではあの狭い本島上空を朝から晩までいつでも敵機は、それも編隊をくんだのが目を皿にして我が砲兵を探している。
みつかれば最後である。
ここでは砲兵の死命を制するほどの対空監視を、誰にでも任せるわけにはいかない。
又、射撃指揮を併せ行わねば目的達成ができない現状であり、そのためには安全な洞窟の中にいたのでは使命達成は不可能である。
危険を冒しても、壕の外に出て、飛行機の機微な傾き具合を見て、発射の可能な瞬間を捉え得る者でなければ、対空監視がつとまるとは言い難い。
それは飛行機に乗って、敵砲兵を捜索した訓練を経た偵察将校ならば一番適任であり、その他の者には出来難い相談である。
幸い、私は重砲兵学校教官時代にその専門でやってきたので、その任にうってつけなのは、結局私だけである。
私はこの役目を自ら引き受ける決心をした。
「大隊長殿!!危ないっ、私がやります」と叫ぶ指揮班長の川畑中尉を無理矢理叱りつけて、私は壕の外に偽装網をかぶって、あぐらをかいて坐った。
試射は夜が明けて目標が判るとすぐ、実施して、うまく終わり [Dotty] ダティ ラグジュアBS シートカバー ブーン M301S / M310S H16/06~H17/11 5人乗 [CX / CXセレクション / カスタム] ※北海道は送料540円(税込) 沖縄・離島は送料1296円(税込)、目視で見つけた目標に、効力のある射撃で小手調べをしていたが、その内、有川旅団長の許に無事到着した鈴木少尉から早速「沢岻北方五百米、敵戦車五輌」とか「内間陣地西北側、敵歩兵一〇〇」とか無線で順調に報告が入ってくる。
「よしきたっ!」
というので地図の上に目標位置を記入して、試射点からの方向差と距離差を決定して、射撃姿勢を号令し、発射するばかりに準備しておいて、敵機の状態をチラッと注視する、
「よしっ!」
と判断した瞬間、

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、間髪を入れず、発射の合図をするだけで射撃させ、これを繰り返すのである。
(略)
(p.150-151)
その射撃が精密度を増して功を奏してくると、敵は躍起になって、我が陣地を探すと共に何とかやっつけようと必死になっていることがよく判るようになった。
それは、こちらが四、五発も続けて射つと敵は盲滅法に返礼射撃を射ちかえしてくる。
が、皆どの弾も頭上を通り越して保栄茂という後方の部落一帯に落ちている。
夜は夜でこちらが射たないでも絶えずごうごうという音をたてて、なだれが落ちるように広い範囲一帯に亘る地域射撃を探り射ちする格好で実施している。
が、いまもって敵にとっては我が砲兵の弾丸がどこからとんでくるか判らず、現陣地は依然として敵にとっては幻の砲兵陣地であり、目の上の瘤とて癪に障って溜らぬという存在であるらしい。

(p153-157)
大隊観測所から見える範囲は大名、沢岻から宮城、勢理客を結ぶ線から南の方で 15インチアクセラBK系WEDS レオニス NAVIA 02 マットガンメタマシニングカット 6.0Jx15エナセーブ RV504 195/65R15、丁度私の大隊だけが軍砲兵隊指揮下では協力を命ぜられている歩兵第六十四旅団の防衛正面の殆んど全正面が手に取るように判る。唯、安謝川両岸の地域が死角で見えないが、沢岻の鈴木少尉の所からならある程度見える。
火砲の射撃精度からみて、敵が、我が視界に入りさえすれば仕留める自信はある。
敵に見つかれば、集中砲爆撃を喰らい、火砲が破壊されるか、陣地を変えるかどちらかである。試射の間に潰されることも多い。
こんな状態の繰り返しでは、如何に訓練精到という日本軍砲兵といえども手も足も出し難いはずだ。
この点、我が海軍砲大隊の橋本隊の一門は、陣地として敵が予想もしないような突飛な場所を偶然にもせよ 【送料無料】 バッテリー エコ.アール アルト E-HB11S 用 ECT-40B19L スズキ SUZUKI ECO.R エコアール GSユアサ GS YUASA ジーエスユアサ 車用 車 カーバッテリー エコ 国産車 充電制御車対応、見付けることが出来たということと、対空警戒に私自身が慎重に当たったということで、敵に発見されることもなく、而も射てば射つほど射撃の精度はよくなり、狙った目標は必ず仕留めることができたわけである。
沢岻の有川旅団長のもとには彼の直属の旅団砲兵(十糎榴弾砲四門中隊)からも、観測掛将校が同じように派遣せられていたので、本来ならば、その中隊に命令して射撃させるのが、順当であるけれども、「いざっ」というときさっと機敏に而も精確にこれはっと思う目標に対し、射弾をたたきつけることができる我が海軍砲大隊だけを旅団長は頼りにして、旅団長自身がいつも「海軍砲頼むぞっ」と言ってくれたと、鈴木少尉は後日我大隊に復帰した後で、私にことの詳細を報告した。
この沢岻陣地の一週間以上に亘る有川旅団に協力した防衛戦闘で次のような意味の賞詞を頂いた。
「海軍砲大隊はこの間極めて、有効適切な射撃をもって、しばしば旅団の危急を救い、その功績は極めて顕著であった。」
この賞詞は五月十三日に一応無線電話を以て、鈴木少尉から伝達され、後日、復帰した際、通信紙に旅団長自身が書いたものを持ち帰った。
このことは部隊の功績を自画自賛するというのではなく、一般戦史に埋もれたままの部下たちの功績を、はっきりと記録に留めておきたいがために、敢えて記述することとした次第である。
射撃精度が抜群であった一例を挙げるならば、丁度五月八日前後の頃、敵砲兵三門(白く塗装した架台の高い十糎級程度の加農砲)が仲西付近の街道上に現れて、我が沢岻西側の陣地を側背から猛烈に射撃中なのを発見した。
時刻は丁度お昼前後である。
私はこの三門砲兵をやっつけるべく、射距離と方向を精密に測り(座標図に敵砲兵の位置を点で示しさえすれば観測係が、射距離と方向は算出してくれる)第一発を発射したところ、なんと初弾は向って右の砲車と中央砲車の間の僅か後方に弾着した。
すると今まで必死になって味方陣地を砲撃中であった敵の砲手の全部が一人残らず、蜘蛛の子を散らすように四散して、影も形も消え失せたのにはこちらが面食らった。
日本軍砲兵ではたとい敵弾が集中しようとも、砲手は火砲のある限り、砲側を死場所と心得て、無断離れるなと教育され、指揮官がその時の状況を判断して、火砲を移動するとか、別の処置をとるのであるけれども、人命尊重第一主義の米軍は我々と違い、たった一発の至近弾でも、これが偶然のまぐれ弾かも知れないのに、逸早く火砲を放置したままで逃げ散るとは、流石に違うお国柄である。敵さんの一人もいなくなったその留守中に、三門ともやっつけてやろうと私は大事をとって、
「一つ左へ、十二半引け、榴弾一発、各個に射てっ」
と号令した。
弾丸は見事中央砲車に命中し、砲身はダラッとぶざまに垂れ下がった。
射距離は約八千米だから、一つとは左の方へ一ミリ即ち八米を、射距離は十二米五十糎だけ最初の弾着点から近くの方へ動かしたら中央砲車に命中した訳である。次は
「一つ半右へ榴弾一発、各個に射て」と号令して右砲車をもはねとばし、なお更に続けて
「三つ左へ、心持ち引け、榴弾一発・・・」という重砲兵独特の号令をかけた。
「心持ち引け」という号令を説明すると、射距離表尺の目盛りは二十五米刻みが最小の単位で刻んであり、その半分の十二米五十糎の距離修正はどの砲兵でもかける号令であるが、精密射撃を身上とする重砲兵では更にその半量(即ち最小目盛刻みの四分の一量)の修正号令をかけることがまま実施された。
それは八千米の射距離で六米二十五糎だけの距離修正をする勘定である。
その「心持ち引け」という重砲兵伝統の号令をかけたところ、案の定、私の予期通り、左砲車に見事命中して、左の方にグラッと傾いた。
「やったぞ」という歓声が観測所と砲側で一斉にあがった。
我が海軍の砲手で陸軍の九六式十五糎榴弾砲一門をもって、さしも猛威を振るう敵火砲の三門を僅か四発で而も五分とはかからずに、確実に破壊した実績は、公平に見て高く評価されていい事績であったと思う。
(註)敵砲兵一門を破壊するため何発の弾丸が必要かと言えば、日本軍の権威ある統計では、射距離にもよるが、八千米で、地域射撃を以てする場合は二百発が必要とされていた。

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長い引用になりましたが、素晴らしい技量に感じ入りましたもので紹介させていただきました
これがあの「牛乳瓶の中にでも撃ち込むことができた」レベルなのですね(火器の種類は違うのでしょうが)
(「沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間」p.120)
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2019/03/05

仁位 顕 『珊瑚礁を朱にそめて』 (1973年) ②

以前の記事でも紹介した
仁位 顕氏の 『珊瑚礁を朱にそめて』より

(p53-54)
一方、小禄飛行場を中心とした地区は海軍根拠地隊の守備地域である。
太田司令官は海軍での陸戦の権威者といわれ、その隷下約1万の守備隊があり、大いに期待せられた。
艦艇から取外して陸揚げされた火砲による砲台が十二ヶ所程備付けられていた。
その内四つの砲台は陸正面にも使えるもので、なかでも、2ケ砲台はどういう訳か、陸軍火砲でも逸品と言われる九六式十五糎榴弾砲が計四門備付けてあった。
当初、海軍からはこれ等砲台の十幾つの戦闘指揮を陸軍(第九師団)にやってくれるよう申し入れをしていた。
そしてそのための指揮官として私が予定されていたのであるが、丁度第九師団が、台湾へ移動する大本営命令が出る直前、独立重砲兵第百大隊から、私は第九師団へ転属命令を受けたのである。
命令を受けた途端に師団全部が台湾行きと決まった訳である。
私個人としては「このまま台湾へ行けるものなら有難いがなあ」と、思わぬでもなかった。
いよいよ影濃く迫ってくる沖縄への敵の来攻は、各種の情報と色々な兆候と相俟ってもはや免れ得ないもののようであった。
併し、兎も角、私が第九師団に転属させられたのは、何も第九師団の砲兵を指揮するためではなくて、海軍砲台指揮のための便宜上の措置と判っていたので、一応は軍司令部へ伺いをたてぬ訳にはいかぬと思い、念のため、軍司令部に出頭してみた。
直接、八原高級参謀に対して「私は第九師団へ転属命令を受けましたが、師団と一緒に台湾へ出発してよろしいでしょうか?」と尋ねた。
内心は高級参謀から「一度転出命令が出た以上、仕方はないから同行してよろしい」と言ってくれればいいがという期待は、凡人である以上持たないでもなかったのに、彼は言下に次のように言ってのけた。
「いや、君は海軍砲台の指揮官として残って貰うことにしている、行って貰っては困る」と、
現地軍としては敵の進攻を目前に控えた今、たとい一兵と雖も手許から離すことは嫌だったに違いない。

(米軍の諜報活動について)(p63)
戦後出会った或CIC (米軍諜報機関)の一人の大尉が直接私に話したことだが、彼は偶然にも沖縄で活動したスパイの一人で「自分は戦争中沖縄本島に潜入していて、砲兵部隊の指揮官としての貴方の名前も知っていた」と言った。
まさか、我々のような臨時に編成した部隊の而も第一線の砲兵部隊の指揮官の名前までも調べて知っていたとは思えないが 、満更、根も葉もない訳ではなかろう。
話半分としても、恐るべき米軍の諜報機能といわねばなるまい。
それというのも我々とは違う有名人とはいえ、硫黄島ではオリンピックで名高い西大佐が、戦車部隊の指揮官として戦闘していた事が、いち早く判っていたというのは米軍資料で明らかな事実であるからである。

開戦前の八原大佐とのやりとりが紹介されていますね
仁位氏にとっては台湾に行けたら幸運なことだったのですが

また後日紹介したいと思いますが
仁井氏の神技な射撃技術が沖縄戦では大いに発揮されましたので
やっぱり「行って貰っては困る」わけです

米軍諜報活動についての所感も書かれていますが
以前紹介した保坂廣志氏「日本軍の暗号作戦」を読んでも
まあ実際ある程度ホンモノのスパイが活動してたのだろうなあと思われました
2019/02/14

(番外)Frank B.Gibneyの息子さんは

捕虜になった八原氏を尋問した、元アメリカ海軍情報部将校 Frank B.Gibneyさんの回想については
以前の記事で紹介しましたが

その息子さんはというと、アカデミー賞受賞歴のある映画監督だったりします。
(Alex Gibney氏、Taxi to the Dark Sideで2008年ドキュメンタリー映画賞受賞)

Taxi to the Dark Sideは、アフガニスタンのタクシー運転手が米軍兵士に捕虜となって、
拷問の末、殺された事件を扱ったもののようです。

Alex Gibney氏に対するインタビュー記事の中に、
捕虜に拷問してもかえって良い情報は得られないという文脈のもと、
父であるFrank B.Gibney氏と八原大佐とのepisodeが紹介されています

概ね前回の記事で引用した内容ですが、Alex Gibney氏にいささか誤解があるのか??、
大佐が「君はもっと気を付けた方がいいよ」と言ったのは、まさに訊問中の出来事という表現になっています。

まあそれはそれとして、要するに捕虜を人道的に扱い、ある種の信頼関係を築くというほうが
色々な意味で好ましいという一例としての紹介でした

(以下引用)
Alex Gibney: My dad’s experience was exactly like that.
In fact, I was reading some of his memoirs recently.
I have his interrogation logs. He interrogated a fairly senior guy in Okinawa, Colonel Yahara.
He developed a pretty good rapport with him and got a lot of good information.
But at some point, Yahara turned to my father when he was interrogating him and said,
“Gibney-san, you really should be a little more careful.”
And he described the trip they had just taken together in a Jeep.
He said, “Your sidearm was right there, I could have taken it from you, knocked you flat and run off, gone back to my lines.
You really have to be more careful.”
[Laughs]
My father thought, “What kind of a soldier am I?”
But it also testified to the fact that they had already developed a kind of rapport
that got a lot more out of him than waterboarding.


(拙訳)
アレックス・ギブニー:私の父の体験がまさにそんなだった。
実のところ、最近父の回想録をいくらか読んでいたんだ。父の訊問記録を持ってる。
彼は沖縄で、かなり年長の男を尋問したんだ、八原大佐だ。
父は彼とかなり良い信頼関係を築いて、多くの良い情報を得た。
だけどあるとき、八原は訊問中の父を見てこう言ったんだ、
「ギブニーさん、君はもっと気をつけたほうがいいよ」
彼は父とジープで一緒に行った小旅行について触れ、
「君の銃はすぐそこにあった、私はそれを奪って、君を殴り倒して脱走し、友軍陣地を目指すことだってできたんだ。
君は本当にもっと気をつけたほうがいいよ」
(笑い)
父は考えた。「自分は兵士失格だ」
だけども、この話は、すでに彼らがある種の信頼関係を構築していたってこと、
そのおかげで水責め拷問より、もっと多くの情報を引き出すことができたってことの証明でもある。

2019/01/29

”The battle for Okinawa” アメリカ海軍情報部将校Frank B.Gibneyの回想 ⑥(英訳1995年)

八原氏の『沖縄決戦』の英訳版、The battle for Okinawa の、
Frank B.Gibney(捕虜になった八原氏を尋問した元アメリカ海軍情報部将校)のchapterより

(前回の記事はこちら)

戦後、大佐が本土に帰還して後、だいぶたってから東京で再会(!)したときのことについて書いた部分です

(八原氏が著作「沖縄決戦」を世に出し、鎌倉に転居した後、なんと東京新宿の京王プラザホテルで再会したとのこと
「沖縄決戦」を読んで感銘を受けた.Gibney氏から大佐を誘ったようです)

(以下拙訳)

彼はくつろいで楽しそうに昔の話をしたが、
著書のなかで事実をはっきりさせたかったという願望を強調していた。
それは軍関係者から、彼が生き延びたことを厳しく批判されるためであった。
彼は陸大の同窓会には出席していたが、軍関係の付き合いはほぼそれだけだった。

依然として世界情勢や国際的事件について良く把握していたが、
近年の日本国民一般の態度に対してはますます悲観的になっていた。

高度成長時代が始まり、企業活動にばかり関心が集まり、
国際政治というものは新聞で読むだけの、二流の観戦スポーツのようになっていた。
中国やベトナムの共産主義の権勢について、ほとんどの日本人が奇妙に無関心であった。
戦時中はこの同じ大衆が絶望的に無批判な軍国主義者であり、度を越した愛国主義者であった。
全く同様に無批判に、今度は平和主義者としてふるまおうとしている、と彼は考えていた。

彼はブリタニカ百科事典の日本語版の編集という私の仕事に大変興味を示した。
そして私が日本語力を保っていることを喜んでいるようだった。

それから我々は沖縄の話をして、大佐はごく個人的な歴史のこぼれ話を披歴してくれた。

”ねえGibneyさん、あの8月の日に、君が守衛を下がらせて、
私を島の観光に車で連れて行ってくれたとき、
あれはまだ日本が降伏する前で、私はまだ沖縄を脱出して東京に報告をせよという命令下にあった・・・。
君はまったくもって不注意だったな。
君が誇らしげに新しい道路網を私に指し示して見せてくれているときに、
君のピストルをひったくって殴り倒すのなんて簡単だったんだ。
ことによると、ジープを海岸まで走らせて、ボートを見つけて北部に逃げることだってできたかもしれない。
私はそんなことを考えたけれども、あまり良い趣向ではないと思い決めた。
だからそのままじっとしていたというわけなのさ。”

私は彼の話に釘付けになった。
その可能性は当時の私にはおさおさ思い浮かばないことだった。
私は、いったん捕縛された後には、成り行きを受容するのみの捕虜たちに慣れすぎていたのだった。
日本軍大佐の八原が逃亡していたら、米海軍予備役中尉のGibneyは
とんでもない大恥をかいていたことだろうと思う。
その場を生き延びたとしても、軍法会議ものだ。
ポーツマスの海軍刑務所 ENDLESS(エンドレス) ブレーキパッド SSS EP400SS2、あそこはあまり良い場所ではないと聞く。
私は彼に感謝したのだった。

皮肉屋八原氏の真骨頂なエピソードですよ
まああそこで逃亡していてもどないしようもないことは
大佐には十分すぎるほどわかっているわけで
冗談半分なんでしょうが

”The battle for Okinawa”よりはこれで以上です
「沖縄決戦」の単なる英訳に留まらない貴重なエピソード満載でしたね

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